対馬の自然と文化拠点半井桃水館
対馬の自然と文化拠点半井桃水館
対馬の自然と文化拠点半井桃水館
対馬の自然と文化拠点半井桃水館
対馬の自然と文化拠点半井桃水館
対馬の自然と文化拠点半井桃水館
対馬の自然と文化拠点半井桃水館
対馬の自然と文化拠点半井桃水館
対馬の自然と文化拠点半井桃水館
対馬の自然と文化拠点半井桃水館
対馬の自然と文化拠点半井桃水館

樋口一葉

1872年(明治5)5月2日、東京府第二大区小一区(現・千代田区)内幸町生まれ。本名なつ(奈津)。夏子とも書いた。

上流階級の子弟が多い中島歌子の歌塾「萩の舎」で和歌・古典を学び、身分は低いが、才能は随一だったという。兄・父の相次ぐ死により、女相続戸主として母・妹を支えることになる。貧困に苦しみながらも、「萩の舎」の先輩・田辺龍子が執筆で高額の原稿料を得たことを知り、小説家を志す。

1891年(明治24)、半井桃水の指導を受け小説を書くようになり、翌年、文芸雑誌「武蔵野」に処女作『闇桜』を発表。一葉と独身の桃水との間に醜聞が広がったため、生木を裂くような想いで決別。その後、「大つごもり」「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」など珠玉の作品を発表し、鴎外、露伴らから絶賛される。

1896年4月に体の異状を訴え、同年11月23日、結核で24年7ヶ月の短い生涯を閉じる。墓は築地本願寺別院、のち杉並区和泉に移された。戒名は知相院釈妙葉信女。「焼き捨てよ」と妹に手渡された日記は、死後15年を経て公開され、そこに記された桃水への尽きぬ思いは多くの人々に衝撃を与えた。